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健康は大事、当たり前だけど

健康というのはありがたいものである。だが、健康であるとそのありがたさに気づきにくい。健康に限らず、当たり前だと感じていると、そのありがたさに気づきにくいと言えるのかもしれない。当たり前、というのはそのひとの解釈の仕方にすぎない。本当に当たり前なのかどうかを保障するものではない。

今、私は五十肩で苦痛を感じている。数年前に右肩を罹患し、今は左である。右の時より症状は軽いが、それでも痛みや可動域の狭さに辟易し、余計なエネルギーを消費させられる。多少は改善傾向にあるようだし、右のひどい状況に比べればずいぶんマシなので、不幸中の幸いだと思うことにしたい。

精神と身体は別個のものとは考えにくい。実際、精神症状の一部として身体化した症状が現れることはあるし、心身症と言われる、心理的ストレスが体の病気の発症に大きく影響している疾患もある。先週は日仏医学コロック2015というコングレスが日仏会館で催された。すべてに参加はできなかったが、いろいろと刺激になったり勉強になった。フランスの心身症の専門家が精神分析の観点から発表していた。演者は医師であるとともに精神分析家でもあるとのことだった。日本では、心身症に関する精神分析の立場からの研究は少ない。演者の話は興味深かったし、また治療における解釈のタイミングについて質問してみたかったが、質問者が多く、既に質問していたひとに対するレスポンスも打ち切りとなった。他にも、漢字やかなとの関連での読み書きに関した脳における言語の問題など、いろいろと興味深い発表があった。

日本人でフランス語で発表したり、通訳を介さずに討論している方々を見ると、できれば自分もああなりたいと羨ましく思う。もっともこれは、自分の努力不足、いや欠如といってもよいことに起因するので、深く考えると気が滅入りそうだ。これくらいで、今日は終わることにする。
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勉強の秋

学生のときは、8月末から9月というのは苦手な季節だった。夏休みが明けて学校が始まる。学校というのは悪いことばかりではないが、登校するのはめんどくさい。そして、なんと言っても試験というのが重荷である。おまけに段々と日が短くなってきて侘しい気持ちになる。

幸い、今ではこの季節はそれほど苦手というわけではなく、たんたんと過ごしている。ありがたいことだ。さて、早や10月も半ばとなり秋も深まってきた。先週末は精神分析関連の学会に出席した。自分は発表がないのでその点は気楽だし、いろいろとヒントになることや考えさせられることがあり刺激になった。討論にもけっこう参加できたし、充実感はあるが、なんとも脳みそは精神分析漬けになっている感がある。参加者はけっこう多いので、発言するにしても単なる思いつきというわけにはいかず、発表者、ベテランから初学者まで幅広い人々に何かヒントになるようなことをアドリブで言うとなると、なかなか難しい。学会の将来ということについてをテーマにしたセッションもあったが、それは単にその学会の問題というわけではなく、精神分析固有の問題と、日本における精神分析の発展と今後について、といった問題に通じていると思う。

さて、私が関連している組織でいささか身内の宣伝ということになってしまうかもしれないが、来る2015年11月1日(日)には東京の専修大学で日本ラカン協会のワークショップが開かれる。テーマは「幻想の臨床」で、二人の提題者による発表と全体討論がある。幻想は、ラカン精神分析におけるキー概念の一つだし、私自身、とても楽しみにしているところだ。
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「「エクリ」を読む」を読む

ラカン派の論客であるブルース・フィンクの著書の邦訳書「「エクリ」を読む」(人文書院刊)が最近出版されたので購入した。ラカンを学ぶならエクリを読まないわけにはいかないが、何の前提知識もなく自力で邦訳だけを読んでも、ほとんど何もわからないだろう。翻訳の問題もあるが、エクリをどう読むか、それが大きな問題だ。

本書を道しるべにしながら、エクリを読むというのは、エクリの読解をする際の大きな助けになるに違いない。本書の後書きとして、訳者の一人の上尾真道氏による訳者解説が載っている。けっこう長い読み物になっていて、エクリならずラカンを学ぶことについて核心に触れることが書かれている。フィンクによる本文を読む前に一読しておくことを勧めたい。

日本においてラカン精神分析をどう学び、あるいはどう実践するのか、この問いは根源的なものである。フランス思想の輸入というようなレベルでやることには何の価値もない。では、どのように捉え、考え、実践していったらよいのだろうか?上尾氏の述べることにはそのヒントになりそうなことが示唆されている。検討する必要のあることとして、上尾氏はラカンの日本訪問とそれに関連しての発言を踏まえて、次のように述べる。

日本文化の特殊性なるものに固執するのでも、西洋近代的な普遍主義への追従でもない仕方で、ラカンの精神分析への応答を探る必要である。それにはやはり、ラカンが考え、伝えようとした「精神分析」というものを、もう一度真正面から受け止めねばならないのではないのだろうか。それが彼が生きた歴史のなかで、いったい何であろうとしていたのかを。そしてまた、異国のうちで、どのようなものとしてありうることが思い描かれるのかを。ラカンが日本の読者に宛てた最後の言葉にはそうした思索を呼びかけるような響きが、いくらかでも込められてはいなかっただろうか。(276頁)




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「アンチ・オイディプス草稿」

ある学術団体で、ドゥルーズとガタリの共著「アンチ・オイディプス」を取り上げようかという話がある。まだはっきりしたことが決まったわけではないのだが、正式に決まってからでは時間が短くて読む気にもならぬだろうと、少しばかりの予習をと思って、本屋に行った。

ガタリの「アンチ・オイディプス草稿」(みすず書房)という本を購入した。これは、ガタリがドゥルーズに書き送ったテキストの一部だということだ。元々の書物「アンチ・オイディプス」をやめて、とりあえず草稿の方にしたのは、私が2人の思想を追求しようというよりは、自分の思索のヒントにしようと思っているためであろう。

ドゥルーズとガタリはもちろん名前は知っているが、今まで何も読んだことがなかった。この機会に多少なりとも触れておくことは意義があることだろう。こういう縁が生まれるというのも、研究会や学会などに参加するというところから導かれるのである。書斎に籠っての独学では、どうしても幅が狭くなる。

さて、この「アンチ・オイディプス草稿」であるが、そのときそのときの思いつきを書き綴ったもののようだ。だから、読むのも、順番にガタリの思索を追うというのではなく、読み手の思いつきでぺらぺらとめくり読みしてよいのではないか、と勝手に思っている。よく目につくのは、「機械」という言葉である。ガタリはどういう意図でこの言葉を使っているのだろうか?私にとっては違和感のある言葉である。ガタリにとっては自然なのか、あるいは敢えて挑発的にこの言葉を採用したのか?分裂分析というのもキー概念の一つらしいが、どういうことなのか?

「精神分析とは何か?」という章から次に引用しておこう。

ラカンという人物がおもしろいのは、普通よりもずっと頭がおかしいところで、物事を「正常化」しようという努力にもかかわらず、彼は横滑りし、記号の脱領土化へとさらにスリップしていくのだ。(132頁)




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