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先日、外出した際に何時だろうと腕時計を見ようとしたら、腕になかった。あるはずの時計がなくて自分の手首を見るのはなんとも情けない気持ちになる。幸い、携帯電話は持っているので多少面倒だが、時間はわかる。次から次へと予定が詰まっているわけでもないので、頻繁に時間を確認する必要もない。まあ、無駄に時計を見なくてよいし、腹時計の精度が上がるのではないかという考えも起こって、気を取り直した。

カフェで一休みして、出てきて20メートルくらい行ったところで、店員さんが追いかけてきた。忘れ物ですよと、私の買い物用の布袋を持っている。有り難いことである。そのままであれば、買い物をしようとした時点でようやく事の重大さに気づき、カフェにトボトボと戻ったことであろう。置き忘れたこと自体は残念なことだが、わざわざ店員さんが追いかけてきてくれたことは、よいことだし、人の親切に触れることができたという意味でも、嬉しいことである。

元々、私は、身に起きることには、よいこともあれば悪いこともある、そのことをありのままに受け取るという態度を良としてきた。よいとか悪いとかいう判断をせず、ニュートラルな態度を取るということである。1年半くらい前に、違う考え方をしてもよいのではないかと思うようになった。きっかけとなったのは、家を出る時に眼鏡を眼鏡拭きで磨いていた際に、眼鏡が中央からポッキリと真っ二つに折れたという事件だった。事件と称するのは大袈裟だが、見事にポッキリ折れるとは初めての経験でビックリした。一瞬、思ったのは、よりによってこんな時に折れるとは、なんて運が悪いんだろうという思いであった。だが、代りの眼鏡はあるのでそれを使えば特段困ることはない。それに、外出中にもし眼鏡が折れれば、歩行にも支障が出てくる。そう考えてみると、運が悪いどころか、いや、運がよいのではないかとふと思ったのである。このエピソード以来、私はなるべく一見悪いことに見えることでも、よい点を探すように試みるようになった。そうすると、自分の感覚としては、運の悪いことが少なくなリ、結果、ストレスも少なくなる。言ってみれば、生活が楽しくなってくるのである。

以前のニュートラルにものごとを捉えるのと、ものごとをよい方に捉えるのは、どちらが絶対的によいとは言えないだろう。自分の感覚で、なんとなくこっちの方がよいかなと思う方でよいのだと思う。明らかなのは、自分は運が悪いと思ったり、不吉なサインだと受け取って落ち込んだりするのは割に合わないということだ。

今日も楽しく生きている。ありがたいことだ。
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