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「盗まれた手紙」そして、今年はこれにておしまいです

今日は晦日。今年も明日で終わりである。何よりも大きな病気や怪我もなく健康に月日を送れたことはありがたい。いろいろと新しいこと、充実した体験もあったが、忙しさにかまけなんとか最低限のことをやるだけですませてしまったことや、時間切れでやれなかったこともある。来年は躍進を、と言いたいところだが、やはり一歩一歩着実に進んでいくしかない。

日本ラカン協会の機関誌「I.R.S.ージャック・ラカン研究」第14号「特集:盗まれた手紙」が届いた。盗まれた手紙というのは、ラカンの著書「エクリ」の冒頭に収録されている重要かつ有名な「「盗まれた手紙」についてのセミネール」のことを指す。ラカンはエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」という小説を題材にして精神分析を論じている。今回の最新号の機関誌では、冒頭に若森栄樹氏による邦訳、続いて数人の論客による座談会が収録されている。おもしろそうなので、さっそく正月に読んでみたい。

それにしても、この年末の慌ただしい時期に会員に年内に機関誌の最新号を届けようと、事務局では発送の大仕事をしてくださった。そのことに感謝したい。

そして、仕事の上で、あるいは趣味の領域で、あるいは知人・友人関係で、いろいろな人々にお世話になった。おそらくはそのほとんどの方々がこのブログを読んではいないだろうが、ここに私の感謝の気持ちを記しておきたい。

この記事をもって私の今年のブログをおしまいにしようと思いますが、ブログを読んでくださるみなさまに感謝申し上げます。このような、あっちへ行ったりこっちへ行ったりで的の絞れない内容のブログを訪問して頂きましてありがとうございました。
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カジノからの連想

私が以前、豪州のメルボルンに住んでいたことは今まで何度も書いてきた。

今、日本でカジノを解禁にしようという動きがありそのための法案が通る云々というニュースが流れている。カジノということで連想するとメルボルンのことが思い出された。メルボルンのシティ(中心街)に接する地域にクラウンカジノというのがある。もっとも私はカジノには一歩も足を踏み入れることはなかったのだが。

カジノを日本でもやるという議論には、多くの先進国に存在するからとか、依存症は確かに問題ではあるが、対策費をしっかり確保しておけばよい、という意見が主だったもののようだ。他の国にあるから、というのは、参考程度にはなるだろうが、存在を許容する理由とはならない。他の国にあるものを日本に導入する場合、そのものがよいか悪いか、有用なのかどうなのか、が本質的な問題である。そのことを論じる際には、経済効果があるということがあげられているようだが、そもそもそのことが本当なのかどうかを吟味する必要はあるだろう。たとえば、ある外国人観光客が10万円をルーレットに使うと仮定する。確かにそのお金はカジノで直接消費され、また食事をすればそこでお金が使われる。その部分だけを見れば、掛け金10万円と飲食代1万円が消費されるということになる。ほーら、お一人様で11万円が消費されましたよ、ということになる。だが、もしカジノがなければ、10万円は日本の製品を買っていたお金かもしれない。飲食についてはカジノに行った日だけ飲み食いするわけではない。むしろ、街中のレストランに入ったはずのお金が大資本の経営するカジノ内のレストランに入るだけである。お金が落ちると言ってもそれはお金の落ちる場所が変わるだけということになりはしないのか?

カジノの近くを歩いていた時、ホームレスとは思えない外見の中年くらいの人々に小銭をせびられることがあった。私は当時、留学のための滞在で貧乏暮しだったので、そんな金はないと断った。当初は思いつかなかったのだが、段々と、そういう人はカジノですってスッカラカンになって食事代や交通費にもことかくようになった人ではないかと思うようになった。また、ギャンブル依存症になった人を直接治療することはなかったが、そういう人たちのことを精神分析や心理の勉強仲間から聞くことはあった。日本にはカジノは存在しないので、カジノと聞いても、「ふーん、どういうもんなの?」ということになってしまうが、実際に自分がそれに関わっている人々に出会うと現実感が出てくる。

いいところばかりを見て、マイナス面を軽視してのカジノ導入には危惧を覚える。
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