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このところのことあれこれ

本当にいろいろなことが慌ただしく過ぎていく。しばらく前のことになってしまったが、高校の同窓会があった。クラス会はここ数年は年に1回開催されているが、今回は学年会だった。この年になってくると、亡くなっている人もいるし、仕事を早期退職して新しい一歩を踏み出したという人もいる。たとえば、山の中でペンションを経営している人、世界各地をバックパッカーの旅で回っている人などの話を聞いた。やりたいことがあればそのうちになどと言っていると、結局は体力もなくなりできなくなる。それよりは、思い切ってやってみた方がよいということだ。ただ、やりたいことがないようなら、無理してやめず仕事にしがみつくというのもよいかもしれない、という話だった。人それぞれの人生があるのだと、いろいろと考えさせられた。

クラス会の次の週は友人の結婚式。私は堅苦しい場が嫌いで滅多なことでは結婚式などの式典には出ない。とは言え、今回は親しい人であり、またいろいろな偶然が重なって出会った縁のある人だったので、喜んで出席した。いろいろと趣向を凝らし配慮がなされていて、堅苦しい場が苦手な私にも居心地のよい楽しい時を過ごすことができた。何事も工夫ということが大切だということを考えさせられた。

次の週末はラカン協会のワークショップ。提示者は2人で、どちらも知識を提示するというよりは、素材を提示してそれをもとに参加者も一緒に考え討論していく形になった。いろいろなことが連想され、私も討論では発言して、充実した時間を過ごせた。発表を聞きながら私の頭にあったことがある。話は私が豪州に渡り精神分析の研究と研修をした時期に遡る。かねてから私は学会などの討論の時間に、質問者が演者に「これこれについてお教えください」というよくある質問に辟易していた。そういう質問が必ずしも悪いわけではないが、討論の時間というのは、知識を演者から聴衆に伝達する時間ではないだろう。単に知識を得るのであれば、本を読んだり、レクチャーを受ければよい。本当の意味での討論にならないのではないだろうか?ところが、豪州での研究会やカンファレンスでは、「一つの問いを立ててみたいと思います」という言葉に続いて、参加している者の連想を刺激したり思考に一つの考える道筋の光を投げかけてくれるような、問いが提言される。実際、それによって討論が活性化されるというのをしばしば経験した。以来、私はそういう場でのみならず、自分だけで何かを考える際にも、問いを立ててみるということをやってみることに自然となっていった。

「問いを立てる」ということを表向き言うか言わないかにかかわらず、問いを立ててみること。それによって、思考が柔軟になっておもしろいアイディアが出てきたり、考えているうちに本質的なことに行きあたったりするようになる。すなわち、問いの直接的な答を探すことに汲々としなければならないというわけではないのである。

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サントーム、その他、自分なりに考えみるということ

フランスから精神分析家が来日して、研究会が開催された。私以外はフランス語が達者な人ばかりの参加のため、発表および討論はフランス語で行われた。要点は通訳してもらったが、やはりこういう時はフランス語能力をつけたいものだと思うのだが、結局は勉強しないまま次の機会がやって来てしまう。毎回のように自分の怠惰にあきれてしまう。

発表はサントームについてであった。私の理解は部分的なものだったが、通訳を介して質問してみた。そのうちの一つは精神分析の経過の中でサントームが変化するというところまでは同意するが、ではその変化は連続的なものなのか、非連続すなわち飛び越えて変わるものなのか、ということである。普通に考えれば3界の3つの輪を4つ目のサントームが結びつけるという例の図を考えれば、連続的であることの可能性を想定すること自体、妙な質問かもしれない。ラカンの著書を読みラカンの言っていることをどう解釈するかという視点からはこの疑問は出てこないだろう。だが、臨床を考えるとセッションの積み重ねというのは重要である。ケースの検討において、ある言葉の使用や問いかけによって、がらりと主体の在りようが変わったという発表はあり得るが、それは契機としてはわかりやすいが、その変化が起こるまでにセッションの積み重ねがあり、その準備があってこそ、ある時に目立った変化が起こるのだと私は思う。だとすれば、サントームの連続的な変化がなくてある時、突如変わってしまうというのは、違和感がある。そういう意味では見かけ上の変化はなくても、波動で考えればよいのか粒子で考えればいいのかわからないが、とにかくある種の微小な動揺のようなものが変わっていって、ある時、大きな見かけ上の変化が起こると考えることはできないのか、ということなのである。踏み込んだ討論はできなかったが、単にサントームが非連続に変わるというのは、臨床感覚からは粗雑な考えのように感じるのである。

恐らく上記のような疑問についてラカン派内でも議論されたことはないのではないのだろうか?少なくとも私はセミナー等で聞いたり、本や論文で読んだことはない。ばかばかしい疑問だと思う人もいるだろうが、臨床の側面から思考している私としては、けっこう大きな問題なのである。

変化とは、どのようにして起こるのであろうか?
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