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研究会からの連想

昨日は精神分析の研究会だった。都内の会場に行く時に、突然の豪雨となり、一時、通りがかりのビルに入り避難した。雷も危険なので注意が必要だ。研究会ではいろいろと有意義な討論ができた。そのうちの一つの話題から連想することを以下に記しておこう。

一人の分析家が同じ家族の者を複数担当することは可能かという問題である。同じ家族とは、たとえば親子、夫婦、兄弟姉妹などである。私が精神分析および精神分析に基づく精神科臨床の研修を受け始めたのは数十年前になるが、その際には、同じ家族を一人が受け持つのは無理だからやめておくようにというのが上級者からの定型的なアドバイスであった。すなわち、別の分析家や治療者がそれぞれを担当するべきだということである。その当時は私も妥当なアドバイスだと思い以後もそれが定石だと思っていた。実際に、たとえば、ある人の分析を担当していて、経過中に自分の家族も担当してもらえないだろうかと言われ、お断りしたという経験はある。

私は後に豪州のメルボルンに行って精神分析の勉強を深めることになる。特にラカン派を中心として精神分析の研修と研究をしたのだが、ラカン派の精神分析家と討論するうちに、彼らが私が定石と思っていたことを気にしていないことに気がついた。たとえば、母と娘の分析家が同じだというケースについての話を聞いた時などは、一種の驚きを感じざるを得なかった。その後も、パリに短期間滞在した折に、私のパリ在の友人の知人の両親は昔、ラカンに精神分析を受けていた、などという話も聞いた。

他にもいろいろと同じ家族の複数の者の分析家が同じ人であるというケースを知り、決して特殊な例ではないということを知った。さて、自分が分析家として仕事をする場合にはどうなのだろうか?私がメルボルンに行ったばかりの時には、やろうとしても負担感が強くできなかったであろう。だが、日本に帰国してから、精神科および精神分析の臨床をする中で、以前のような抵抗感がなくなっているのに気づいた。実際、精神科の外来でも自分の個人の精神分析オフィスでも、同じ家族の複数名を担当することを経験している。私としては、そのことでのやりにくさやトラブルはさほど感じていない。

では、なぜ当初は定石と思われていたことが覆ったのだろうか?大きな要因として二つのことが考えられる。

一つは、分析というものは一人一人違うユニークなものであるということである。分析をやりきるというのは、その人の人生を生ききる、というのと同義である。たとえ親子、兄弟姉妹、夫婦であろうと、ある意味近い存在ではあろうが、人としてはまったく別の個体である。人は一人で生まれてきて一人で死んで行くのである。それと同じく、精神分析もまた別個のものなのである。このことが理屈ではなく本物の体験として得られているのか、それによって、同じ家族の複数名を担当できるかが決まってくる。そして、この、精神分析はそれぞれが違う唯一無二のものであるということをわかるかどうかは、個人分析の深まりとも大いに関係してくるだろう。

二つ目として、ラカン派の問題が関与しているかもしれない。かもしれない、とアヤフヤな表現になったのは、私自身、ラカン派以外の分析を受けたことがないから、あくまで推測で言うしかないからである。ラカン派精神分析は一般に分析家の「沈黙」が特徴とされる。分析を進めるのは分析家ではなく、分析主体(分析を受けている者)であるとされる。それぞれの分析家の個性はあるだろうが、一般的には他の学派に比べ、分析家からの介入が頻度とてしては少ない。セッションを時間で固定していないので、セッションを区切ることすら解釈であると言われている。セッションの間中、分析主体が話し、分析家の言葉はセッションの終わりを告げる時だけ、というようなセッションもあり得るのである。他の学派とも共通するような解釈を投げかけることもあるだろうが、少なくとも転移を直接的にあからさまな形で解釈するというやり方は好まれない。この点は、同じ家族に対して分析をするということが可能になるということに通じるのではないだろうか。たとえば、兄弟葛藤をそれぞれが持っているケースを仮定してみよう。分析のセッションで、兄は弟と張り合う話をやたらとする。弟は兄と張り合う話をやたらとする。ラカン派ではない学派では、おそらく同胞に対する気持ちを明確化したり、そこから見え隠れすることを直面化したりということになりそうだ。そういったことに焦点を当てて分析家もその話に聞き入るということになれば、あるケンカの双方からの視点を聞くような状況になり、分析家の方も混乱してくるのではないか?ラカン派の場合は、分析家が直接的な解釈を投与するのではなく、分析主体の側で解釈が自然と作動するように、解釈の契機あるいはヒントを与えるというような手法を取るとすれば、兄が弟がとあれこれ考えずにすむことになり、分析家の側が混乱するということはなくなってくる。

以上、ざっと思いついたことを記してみた。一つ付け加えたいのは、私は、同じ家族の複数の者の精神分析を担当することは可能である、と述べただけである。そのような要請や状況において、常に複数の分析を引き受けるべきであると述べたわけではない。それぞれの事例によって、別々の分析家としておいた方がよい場合もあるだろうし、あるいは、自分の感覚としてやりにくい場合には無理をして引き受けるには及ばないのである。
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夏です

8月となった。夏なのだが、今日はどんよりと曇っている。一方で蝉は鳴いている。気のせいかもしれないが、曇り空の下の蝉の声は侘しく感じる。電車はふだんより空いているいるようだが、大きな旅行かばんを持った人を目にする機会が多いのは、夏休みの季節なのかと思わされる。私は長期の休みは取らず、分散させて休もうと思っている。それにしても、知人でこのところ病気が悪化したり体調を崩したりという方がけっこうおられる。仕事や収入は大切だが、体調を整えることは優先的に考える必要があるだろう。とは言え、プレミアムフライデーというのだろうか、月に一度は早めに仕事を切り上げてなどという企画があるらしいのだが、みんなで同時に休もうと言っても無理があるのではないだろうか。それぞれの仕事によってペースは違う。レストランやカフェも人があふれるほど来てもらっても結局店に入れる人数は限られるし、できれば平均的にお客さんが入った方がよいのではないだろうか。しかも、従業員はそのタイミングで休みを取るのが難しくなりそうだ。そういう意味では、限定的にこの時にみんなで休みましょうというよりは、有休をそれぞれの人がもっと活用する方向性の方がよいのではないだろうか。

先日の日本ラカン協会のワークショップは発表も討論も充実していて勉強になった。フロイトのシュレーバー論文は以前、読んで自分の博士論文の素材にもなったのでいろいろと記憶が甦ってきて、討論の時にはコメントもしてみた。ヘルダーリンについては昔、ある精神病理学者の話を聞いたことがあったが、内容はほとんど忘れてしまったので、今回、発表を聞いて考えることが多々あった。次回、秋のワークショップは、今のところ10月15日(日)の予定だが、詳しいこと確かなことが決まれば、同協会のホームページに発表されるだろう。

8月か夏かということで連想と作文を始めてみたが、そろそろおしまいにしよう。いろいろやることもある。頂いた暑中見舞いの返事をやっと書いたので、後で投函しよう。さて書こうかと思うまで数日、そしてやおらハガキを探すまで数日、やっとのことで文面を書いたら、今度は切手がない。切手を買って、貼って。完成はしたのだが、まだ投函するところまでいかず手元にある。早い人なら1日、2日で書いて出すところを私は数週間。我ながら要領の悪さに辟易する。遅くなってしまい申し訳ないです。なお、仕事上の書類はこのようなことにはならずちゃんと書いております。



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