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秋です

9月に入ったなあと思っていたら、もうあと1週間で9月も終わる。最近はだいぶ日暮れが早くなってきた。秋と言えば食欲の秋とか読書の秋とか言われる。旬のおいしいものを食べて勉強に励みたいものだ。

秋は学会やワークショップ、その他研究会や学術的な催しがよく開かれシーズンと言える。10月15日は日本ラカン協会のワークショップで、タイトルは「エディプスと女性的なるもの」である。提題者2名ともに女性であり臨床家であるというのも徹底している。と、協会の活動に関わっているから言うわけではないが、個人的にも今から待ち遠しい企画である。そして、同協会のホームページのワークショップの案内にある「詳細」をクリックすると司会の立木康介氏が書かれた紹介文が現れる。紹介としてはけっこう長く、去勢、享楽の問題や分析の終結の問題、フロイトとラカンの違いなど、この紹介文自体が学術的エッセイとなっている。精神分析を学ばれている方にはぜひ読んでいただきたい。

このワークショップ以外にも海外からの分析家が来日するということも聞いているし、なかなかおもしろそうな企画の研究会の情報も得ている。読みかけていて中断した本を読み通すのも役に立ちそうだし、いろいろ興味深い催しが多く、厭きない秋になりそうだ。
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狭くではなく広く考える:精神分析についても

私の一番の専門分野はと聞かれれば、精神分析ということになる。精神科の臨床では、一般外来での仕事をしているので、いろいろな疾患の方を診ている。

一見すると精神分析とは関係のない疾患や分野でも、精神分析が役に立つことはしばしばある。たとえば、認知症の患者さん。新患として来院されると、付添いの家族や施設の方が、こんなに会話が成立するとは、と驚かれることがある。単語すら出てこない場合は会話は難しくなるが、言葉の使い方がふつうとは違うというレベルであれば、会話することはさして困難ではない。たとえば、今、目の前にいる人が妻ということがわからないとしよう。だが、妻の方を見て「上等です」とか「立派です」と本人が述べたとする。それは、妻の概念が曖昧になっていたり、昔の妻の容貌しか覚えていないため今の妻と同一人物だと認識することができなかったりするなどして、妻であるということが理解できないと推測できよう。だが、自分が慣れ親しんだ人のようであり、いろいろと世話をしてくれる親切な人であるということはなんとなく雰囲気ではわかっている。その自分の感覚を「上等」とか「立派」という言葉を使って表現していると推測が可能である。そして、患者さんの言い方の雰囲気からは有り難い、感謝している、という気持ちが伝わってくることもある。ところが、妻は自分のことをもはや覚えていないとがっかりしている。もう何もわからない、言葉の通じない世界に行ってしまったのだと思いこんでいるのである。

確かに通常かわされるような会話は成立しにくくなっているのだろう。だからと言って、本人は何も理解していないわけではない。言葉がデジタルな世界だとすれば、アバウトな雰囲気の世界とも形容できようかアナログな世界に生きているのである。そこをわかってあげれば、本人の考えや言いたいこともある程度推測することが可能になるのである。

精神分析では「自由連想法」といって浮かんだことをそのまま話す作業をして、精神分析家はその話を聞く。まずはその話を自分の主観的判断を交えずにそのまま聞くのである。それに少し遅れて、言葉通りではない、別の意味が潜んでいるのではないかと連想を行う。そのまんま言葉そのものとして聞くことと、それを刺激に連想することを一瞬の時間差を持ちながら同時にやっていく。こういう作業をやっていることが、認知症の方とお話しする時にも役に立ってくるような気がする。

いつもより会話ができたり、いつもはぼーっとしているのにけっこうシャキッとした患者さんの態度に驚く付添いの方があまりに多い。私は老人精神医学は専門というほど学んだわけではないが、認知症に限らずお年寄りの方の対応がけっこううまくいってしまうのは、精神分析の訓練課程や臨床で培ったものが活きているのではないかと思う。その他にも精神分析を学んできた効用は多々ある。上記のことは一例である。精神分析は時代遅れだとか、訓練にやたら時間と金がかかるとか、批判はよくされるが、ピュアな精神分析以外の分野にも応用が効いたりよい波及効果が生まれるということは言っておきたい。そういう意味で精神分析家になろうという人以外で、自分の臨床能力を高めたいという人にも精神分析の実地臨床を学んだり経験を積んでもらえれば、精神科臨床や心理臨床に携わる方々のレベルアップになるのではと思う。
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