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ゴールデンウィーク

今日からゴールデンウィークが始まった。外では梅雨のような雨が降っている。明日は天気は回復するらしい。昨夜は、皿を割ってしまった。カップの受け皿で、ずいぶん古いものなのだが、食器棚にしまおうとして、手から滑り落ちてしまったのである。あっと思った時には、手を伸ばして阻止する暇もなく、床面にぶつかり割れる受け皿を見届けるしかなかった。

割れてしまうという現象は残念だが、それはそれとして事実を受けれいれるだけしかないのだと感じた。考えてみれば、カップは1個しか残っていないが、受け皿はまだ3枚あるのである。たぶん、当初はカップと受け皿は4つづつあったのだろう。カップは割れるか欠けるかで3個が廃棄されて、受け皿は4枚とも無傷だったのだろう。つまり受け皿は1枚あればこと足りるところが、余剰の受け皿は処分されずに残っていたのだ。食器棚を見て、やたらと受け皿が多いなとは思っていた。どうも数が合わないので、少し処分してもよいのでは、とは思っていた。ところが数を確認するのも面倒で、そのまま放置していた。そう考えれば、今回、落として割ってしまったことにより自動的に不要なものを処分できるのだから、メリットもあったと考えることはできる。数と、損得勘定の問題はその程度で、これ以上、考えたところで何も生まれそうにはない。

ふと、今、読んでいるラカンのセミネール10巻「不安」のことが頭に浮かんだ。一応、不安がテーマになっているが、不安を考える際に絡んでくる「対象a」のことを思った。対象a はラカンが提唱した概念だが、ラカン自身の説明や解説書を読んでも、字面だけではまあそういうものかという感覚にはなるのだが、どうも実感、体感として理解できるということが難しいのである。はっきりとしない捉えどころのないものでありながら、無いというわけではない、という特性があるので、説明自体も隔靴掻痒で、わかるようなわからないような、というものになってしまう。だが、この落ちて割れた受け皿のことを考えると、アナロジー的に対象a が実感されるような気がしてきた。あっと思って、皿が落ちる刹那。使用できるものとしての受け皿が破片になり屑になってしまう。そして、これがなくなったからといって困ることはない、つまり他にも受け皿はあるのだから。余剰なものとしての受け皿が落下し屑になったのである。こういう実感したものを仮の道しるべとして、対象a について書かれている部分を読んでみると、理解が進むのかもしれない。

いずれにしても、理論というのは字面だけで頭で理解しても、なかなか臨床には直結しない。それにしても、私が几帳面で、いらないものは捨てようという考えを実行に移していたとしたら、受け皿を落とすこともなかったわけだ。これは余剰な連想かもしれない。このあたりで、おしまいにしよう。

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