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秋も深まりたとえば若冲

箱根の岡田美術館で「若冲と蕪村ー江戸時代の画家たち」という展覧会を観てきた。今年2016年は、伊藤若冲と与謝蕪村の生誕300周年なのだそうだ。

伊藤若冲は近年注目されていて、数か月前に東京で展覧会があった時には入るのに数時間待ちということを聞いて、とても行けないと思い断念したのだが、今回、箱根まで出かけるという手間はあったものの初めて鑑賞することができたのは幸いだった。たとえば『孔雀鳳凰図」は構図は大胆でしかも細かい筆遣いで、どんな名人もこれと同じようなものは描けないだろうと思われる作品だった。若冲以外にも、蕪村はもちろんのこと、尾形光琳、円山応挙、池大雅などの名作が展示され、私としては久しぶりに絵画鑑賞を堪能した。

若冲について私は多くを知らないが、通常言われる職人気質などというものを通り越した極めつけの凝り性だったのではないかと思われる。会場の解説に、わざわざ鳥を飼育して観察した旨、記述があったと記憶する。何事もある程度のところまでは習うという作業が必要だが、抜きん出るためには人のやらない工夫、努力をしていかなければならないのだろう。

岡田美術館は箱根小涌園のすぐ近くにあり、今、開催中の「若冲と蕪村」の展覧会の会期は2016年12月18日までである。
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4周年

このブログを始めたのが2012年10月、それから丁度4年が経過した。ブログを自分で書いてみるというのはどういうことなのか、と試しに書いてみたのが始まりだった。最近は記事を書くペースが落ちてしまったが、このところ書く余裕がなくなってきたのと、一度書いたことはなるべく繰り返さないという思いがどこかにあったため、書けることも狭まってきたことは感じる。論を立てるということではなく思いついたことを書くようにしているが、臨床家としては個別の事例のプライバシーに関わることは書けないので、思いついたことのかなりのものはボツにするしかない。4年も経ったのなら初期の頃の記事は読んだことがない人も多いのかもしれないので、それほど重複を避ける努力をする必要はないのかもしれない、と最近は思い始めたところである。それに、何を書いたか、何をボツにしたかも、定かではなくなってきている。

思いつきなので、後になれば訂正したくなるような考えもあるし、あるいは今もその通りだという考えもある。敢えて逆説的な書き方をした場合もあるかもしれない。注目されていない事柄を取り上げ、それが後になって知られるようになったり、予想があたる、あるいははずれるということもあっただろう。また、一応のテーマは精神分析や精神医学としているが、そこにかろうじてひっかかることや、直接的には関係ないように思われることも含まれている。雑多なものになってしまい読みにくい点はあるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

いずれにしても、もしこのブログを読んでいただけるのなら、情報収集というよりは、何かを考えるヒントにしていただけたら嬉しい。インターネットの発達で情報の収集についてはかなりのことができる時代である。しかし、仕入れた情報をどう解釈、あるいは分析し、さらに自分の頭で思考する。このことが大事なことは、声を大にして言いたい。限られた情報に流されたり鵜呑みにしてしまう、それは情報を得ない状態よりもむしろ怖いことではないだろうか。




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精神分析体験

精神分析体験というのは psychoanalytical experience の和訳として私が好んで使っているのだが、精神分析経験としないで「体験」という言葉を使っているのは、頭での知的なものではなく体で体験するものだという感覚が私にはあるからである。

精神分析体験は私にとって精神分析臨床の土台である。これなくして実践も理論も私の中では意味を成さないと言ってよい。そのような思いから連想し思考し文章化した私の論文が日本ラカン協会の機関誌の最新号に掲載され、数日前に手元に届いた。

「I.R.S. ージャック・ラカン研究」第13号「特集:転移」で、タイトル「転移、逆転移から精神分析体験へーリトルとラカンより」という論文が掲載されている。リトルというのは英国の精神分析家、マーガレット・リトルのことである。ラカンは彼のセミネールの中でリトルに言及している。私にはラカンはリトルをけっこうかっているように思える。また、神田橋條治氏がリトルの著書を邦訳しており、私自身、神田橋氏の勤める病院で研修し教えを受けたことがあることから神田橋氏の論考も絡め、また理論と実践、精神分析体験の相互の関連について書いてみた。

だいたい私はいわゆる業績というものに関心がない市井の一臨床家である。だがせっかく滅多に書かない論文を書くからには、精神分析を学ぶ初心の方からそこそこのベテランの方まで幅広く読めるようにと思って書いてみた。

論文の冒頭の一段落だけを以下に引用しておく。

ラカン派の精神分析の臨床では、逆転移という概念をあまり使わない。そのことが慣例なのだと受け入れることに意味はない。なぜ使わないのかという問いを立てる。そこから転移と逆転移を、そして当然のことながら精神分析のプロセスがどう進んでいくのか、さらには精神分析の終結とは何なのか、といったことを根本的に考えることにつながるだろう。
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