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書いているうちに本(発達障害)の話になった

このブログを始めたのが2012年10月なので、5年が経過した。と言っても、私は何事も地味に地道にやっていくのが信条なので、そんなにこのことを大きく取り上げようというわけではない。ただ、もう5年経ったのかと思うと意外な気もする。そして、以前、精神分析を学ぶために豪州に渡り帰国して日本での仕事を再開したのが2007年11月だったので、それから丁度10年になる。10年という年月を思うと、意外というより信じ難いという気持ちになる。このブログも当初は豪州での体験に関連した記事を割と多く書いた記憶がある。ブログの記事自体もどういう文体で書いたらいいやらわからず、私はダジャレが好きなのでダジャレや語呂合わせのようなことも文章に織り込んだが、あまりダジャレが多いと品位が下がるという知人からの意見もあり、段々とダジャレは少なくなってしまった。ダジャレは頭の体操にもなってよいと思うのだが、あまりそういう練習をしていないと段々と浮かびにくくなる。ダジャレは自分の頭で考えているだけではバカバカしくなるので、話したり書いたりするいわば発表の場があった方がよいのである。そういう意味ではダジャレをあまり書かないようにするのは個人的にはマイナス面もある。ただ、初めてこのブログを見た人がダジャレ連発を見て、私のことをふざけた人だと思われても確かに困るし、どの程度書くかは難しいところである。

ダジャレや語呂合わせと聞くと精神分析とは関係ないように思われるかもしれないが、実はフロイトは注目していて論文でもかなりの分量を割いているのである。このことは以前、記事として書いたと思うが、記事数が多くなると私自身いつ書いたのかも思い出せない。

先日、学会に行ったことを書いたが、今日は実はその時に会場に設けられた書籍売り場で買った本について書こうかと思った。ところが、その本が見当たらないので、題名すら紹介することができない。情けない話である。ところが、その代りとしてと言うとなんなのだが、おもしろそうな本を見つけた。数か月前に買ったものの読まずに埋もれていた本である。まだ読んでいないのでこんな本ですと紹介することもできないのであるが、題名からするとラカン派精神分析の視点から発達障害について書かれた本のようである。編著者は上尾真道氏と牧瀬英幹氏で、「発達障害の時代とラカン派精神分析ー<開かれ>としての自閉をめぐって」(晃洋書房)という本である。めくってみたところでは、学術論文のようには堅苦しくなく気軽に読めそうだし、発達障害は最近あまりに強調されすぎているのではと思われるほどの流行りのトピックなので、読んでみようと思う。

ということで、自由連想風と言おうか、最初にこんな感じでと思っていたのとは全然違う話になってしまった。買っただけで読んでもいない本を紹介するというのも、このブログらしい。読者からしたらそんなの意味がないではないかと思われるかもしれない。だが、私としては買ったものを何も考えずにめちゃくちゃに紹介しているわけではない。読む前にこの本はおもしろそうだとか役に立ちそうだとか参考になりそうだとか、なにか考えるヒントになりそうだとか、等々、予想をしてみるということはとても大事なことだと思う。言ってみれば勘を働かせるということである。そして少なくとも私から見ると読んでよかったなと思える本を取り上げたい。もちろん、読者の皆さんもそれぞれの興味関心が違うと思うので大いに勘を働かせて頂ければ幸いである。
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旅ふたつ

先週末は日本精神分析学会が名古屋で開催され、参加してきた。あるセミナーではフランスの精神分析家ラプランシュが取り上げられた。主著である「精神分析用語辞典」は持っているが、他にあまり知識はなかったので大変勉強になった。討論ではラカンの話がけっこう出た。ラプランシュ自身、ラカンの分析を受けながら後にラカンを離れているのだが、フランスの精神分析はラカン派でなくてもラカンの影響はやはり大きいことが思い起こされた。その他のセミナーや演題も大いに刺激になった。久しぶりにお会いする知人も何人かいて懐かしかった。

その前の週末は私の出身大学のテニス部のOB会があり、これまた泊まりがけで出かけていたので、結果的に2週続きの小旅行となった。この際も懐かしい人々に久しぶりに会った。ふだん会う人は限られているが、久しぶりに人に会うと、いろいろな人との出会いがあり刺激を受けたりお世話になってきたのだとあらためて思う。

自分にとっては、精神分析や精神医学の修行は昔テニスを一生懸命やっていたこととつながっている。ある一つのことはそれだけでは完結しないのである。そう言えば、ラプランシュはワイン業を営んでいたそうだが、よいワインを作るのは精神分析家の仕事にも通じることだろう。ワインとは、いきなり作りあげられるものではない。ぶどうがワインになっていくのである。ワインそのものを人間が無から作りあげるのではない。細心の注意を払い根気強い作業があってよいワインになっていく。精神分析の過程もそうだ。精神分析を通じてある人が最後には別人のようになる。それは、精神分析主体がそのようになるのを、見守ったり限られた範囲での援助をするだけである。大地、日の光、水、空気、気候、そういったものに比べたらワインを作る人間は無力と言ってもいいくらいである。


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