SSブログ

日本におけるラカン精神分析

昨日はラカン精神分析の研究会に参加した。東京精神分析サークルのコロックで毎年今ごろ開催されているものである。コロックというのはフランス語でなじみのないひともいるだろうが、コングレスのようなものである。

発表者の一人の十川幸司氏も言われていたことだが、ずいぶんと分析的な雰囲気が出てきたように思う。これは私が役員として関わっている日本ラカン協会についても言えることだ。日本でのラカン派は、ラカンの用語を援用して評論をするというような人文系の学者による仕事が元々多かったのだが、最近は臨床面での力がついてきている。私にとっては嬉しい流れである。もっとも、臨床家以外の方々の仕事を軽視しようというわけではない。いろいろな分野のひとが加わって勉強し討論するということが大事だ。ただ、日本においては、今まではあまりにも臨床面のウェイトが低かったのが問題であった。

第一部「分析経験を語る」は、3人の発表者が各々の精神分析経験を語るというもので、それぞれの経験やバックグラウンドの違いがおもしろかった。裏テーマとしては日本語での分析経験ということがあったのかもしれなかったが、発表者は違ってもその分析家は1人だったので、その点はバラエティに乏しいという点では残念だった。

第二部「イストワールの問題:『エクリ』から半世紀を経て」は、ラカンのエクリの出版から今年は50年という節目の年になるということからの企画だった。小長野航太氏の発表は、ラカンの4つのディスクールを参照しながら精神分析の歴史/物語を論考するというものだった。小長野氏は自分の言説が大学人のディスクールになってしまっていると言いながらも、背景には分析家のディスクールを見据えながらのものであることが透見された。河野一紀氏の「ひとつではない精神分析」では歴史、物語という意味の通常のイストワール histoire とヒステリー的イストワール hystoire を引き合いに出しながらの論考だった。そこには、ラカン派の歴史や、社会の動きと関連する精神病理の歴史も関わってくる重要な問題が取り上げられたのであった。

河野氏は、ラカンの「私は日本に対して何も期待しない・・・」など日本への批判、懸念を引用していた。ラカンの日本批判については今までもあれこれ言われてきたが、私が思うに、ラカンはそのままではどうしようもないのだと日本について失望しているが、完全に期待していないというわけではないだろう。ラカンは箸にも棒にもかからないことには言及しない。日本の文化や日本人に潜在的なよいものがある、しかしそれが今のところは生かされていない、もっと真剣にやれ、もっとなんとかしろ、と鼓舞しているように私には思える。その点、日本における精神分析あるいは日本におけるラカン、という視点が検討されるようになってきていることに、私は希望を見るのである。

第三部「書評セッション」では、ラカン関連の近刊やまもなく刊行される本、4冊についての書評がなされた。専門誌などに掲載される堅苦しい書評ではなく、語り(パロール)による書評という点では、なかなか楽しい試みだった。
nice!(7)