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9月のある日

この連休はシルバーウィークと言われているらしい。とは言うものの、昨日は学術団体の理事会が東京であって行ってきた。休日というのにご苦労な話ではあるが、いろいろな話を聞き、自分の意見を述べるのは有意義な時間である。9月から12月までは、学会、研究会、ワークショップなど言ってみればシーズンで、スケジュールが過密状態である。自分の体力も考えて、休養も取りながら乗り切りたい。

そんなこんなで慌ただしい日を送るうちに年末になってしまいそうだが、今年、2015年という年は自分にとっても歴史の上でも節目となる年になるだろう。戦後70年ということで、大戦を振り返るという契機にもなったが、単なるノスタルジー的な回想ということではなく、9月19日には安全保障関連法案が可決、成立した。

この問題は、社会の上での大きな変化ということのみならず、私にとっても大きな影響をもたらした。元々、私は個人の精神病理や精神疾患の治療、そしてひととしていかに生きていったらよいのか、といったことを考え実践してきた。個人と集団、あるいは個人と社会が、密接に関係しており、別々のものとして考えることができないことはわかってはいたが、今までの理解は表面的なものであり、身体を通しての身体の奥底からの理解ではなかったことを痛感した。

私なりに、集団、社会、政治といった、今まで後回しになっていた分野についての情報収集や考察をするようようになったという点では、画期的な年であると言えるだろう。その9月19日に、折しも「現代思想10月臨時増刊号:安保法案を問う」(青土社)を購入した。一気に読み飛ばすことはできそうにないので、ゆっくり読んでいこうと思っている。

世間では、社会や政治のことが話題になっている。しかし、考えてみれば、その根本は、「生きるということはどういうことなのか?」「私はどのように生きたいのか?」ということなのではないのだろうか。自分の生を大事にするということは、他者の生を大事にするということでもある。物質的に恵まれていても、長生きをしても、果たしてそれで、生きてきてよかった、ということになるのか?

そのことが問われている。
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十円玉の価値

先日、カフェのカウンターでコーヒーを注文し、支払をしてお釣りをもらった。ポンコロと音がした。十円玉を落としてしまったようだ。付近の床を見渡したが見つからない。狭いカフェなので、真剣に探そうとすれば、人々の足元をのぞきこまなければならない。いまどき、そんなことをしたらアブナイ人とも思われかねない。まあ、あきらめるしかないか。

若いサラリーマン風の男性が私のほうにやって来た。十円玉を何も言わずに渡してくれた。ありがとうございます、と単純なお礼を言うしかなかった。まさか連絡先を聞いてメールなり手紙で丁重にお礼を、というわけにもいくまい。男性は何も言わずに立ち去った。

私ならわざわざ十円玉を拾って、わざわざ離れたところまで持っていってあげるだろうか。たまたま気持ちに余裕があったり、気が向いたときには、同じことをすることがあるかもしれない。だが、確率としてはそんなに高くないような気もする。

とにかく、嬉しいと思った。一瞬のうちに立ち去った人には、お礼を言っただけで、直接的にはもうそれ以上のことはできない。だが、嬉しいと喜んでいるだけではこころの収まりが悪い。その翌日、道端で雑誌を売っているところを通りがかった。ビッグイシュー日本版だった。ビッグイシューを知ったのは私が豪州にいる時だった。豪州では毎号というわけではないが、時々買っていた。日本に戻ってから日本版があるらしいと知ったが、今まで買ったことはなかった。習慣というのはある意味、恐ろしい。豪州では買うことが習慣のようになっていた。日本では買わないことが習慣のようになっていた。

今回、この雑誌を買うという行為をした。それは私の内部だけの思考の結果ではない。カフェで十円玉をわざわざ拾って届けてくれた、その有り難さ、感謝の気持ちが私の行為のきっかけになったのだ。十円玉は金額としては十円だが、それだけの価値を持つわけではない。そのことを知った。

ビッグイシュー日本版によると、ビッグイシューは、ホームレスの人々に収入を得る機会を提供する事業として、1991年にロンドンで始まった、とのことである。雑誌販売者は、現在ホームレスかあるいは自分の住まいを持たない人々なのだそうだ。販売価格は350円。そのうち180円が販売者の収入になる。


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