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よい人

おじいちゃんお元気ですか。ぼくも元気です。
もうすぐぼくの誕生日なので、ぼくはとってもうれしいです。

小学生の頃、こんな文面の手紙を母方の祖父に送った記憶がある。しばらくして祖父から現金書留が届いた。そのお金は誕生日のプレゼントで、好きなものを買えということだったのだと思う。小学生ながら、ストレートにプレゼントちょうだいと言うのは気兼ねして、そういう文になったのだろう。

祖父は私が高校生のときに亡くなった。1000キロ以上遠くに住んでいたので、死に目にあうことはなかった。亡くなる前には病院に入院していたが、病床で私宛てに書いた最後の手紙はちり紙に数行。そのちり紙で1万円が包まれていた。手紙の文は数行ではあるが、あまりに遠い昔のことで正確には思い出すことができない。ただ、「よい人になりなさい」と書いてあったことに言葉の重みを感じたことは覚えている。よい人とは、難しい。祖父は浄土真宗のお坊さんだったので、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」がこの言葉の背景にはあるのかもしれない。あるいは、高校生向きの言葉と取れば、ふつうに、よい人、という意味に解してもよいのかもしれない。

祖父の正確な意図はわからないが、立派な人、とか偉い人、とか、勉強しなさい、とかではなく、シンプルに「よい人」という表現にたじたじとなった。それは今でも変わらない。よい人になりたいと思ったし、今でもそう思ってはいる。だが、よい、とはどういうことなのか?それ自体、難しい問いである。

ひとのために何かよいことをしたい。目に見える形で、あるいは目立たない形で、多少のことはしている。だが、自分の能力はあまりにも些少である。昨日も、横浜の街を通るときに、ふと道の傍らにはストリートピープルのおじさんが横になっていた。腹がへっているだろう。寒いだろう。一人や二人ではないから、私が手をさしのべ始めたところで、私はすぐに破産し、今度は私が仲間になってしまう。自分の身を守るために何もせず、ほんの少しの心苦しい気持ちを一瞬感じながら通り過ぎて行くのみである。また、悪意はなくても、結果的にひとに対して悪い影響を及ぼしてしまったり迷惑をかけたりしていることもあるだろう。

私がものごころついた頃、祖父は仕事はせず、畑で野菜を作ったりで悠々自適の生活をしていた。金持ちでもなく有名でもない、ただの老人だった。子どもの私には、ほかのひとと違う独特の崇高な雰囲気を感じていた。たまに夏休みなどに一緒に生活すると、起きても食べても、「南無阿弥陀仏」を唱え合掌しているのを見た。家族の誰にもそのことを強要せず、たんたんと当たり前のようにやっている。何かを指示的に教わった記憶はない。こうしろああしろ、あれはダメだ、これはダメだ、と言われた記憶もない。なんでも、よいよい、と言っている人だった。でも、従弟を叱る場面に出くわして、厳しいところもあるのだなとビックリした記憶もある。

最初で最後の指示が「よい人になりなさい」だった。
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