SSブログ

勉強会雑感、見えるもの見えないもの

昨日の午後は東京で勉強会に出席した。それにしても寒い。終了後、夕食会の料理屋に行く途中、それほど遠いところではないのだが、体の芯まで寒くて震える感覚を覚えた。各地で雪が降ったり水道が凍ったりして、鹿児島県の奄美大島ではなんと115年ぶりの雪を観測したという。

勉強会は、基本的に精神分析家ラカンの著書「エクリ」の読書会で「ローマ講演」と通称される論文を読んでいるのだが、初めに講師の講演風の話がある。特に統一したテーマがあるわけではないが、昨日はレンブラントの絵を題材に精神分析的な見方から「見える」ことを問い直すということについての話だった。絵のコピーも配られたが、最初は絵から連想しようとしても連想の広がりがありすぎて考えがまとまらなかったが、話を聞いていくうちに絵のバックグラウンドがわかり、連想が集約されて、精神分析的な思考が働くようになった。精神分析をほとんど知らないひとから分析家まで幅広いひとにそれぞれの連想を呼び起こすと思われる話だった。

エクリの読解もいろいろと教えられるところがあった。また説明を聞いたり討論に加わるうちに、いろいろと連想が湧いてくる。昔の記憶が呼びさまされ、精神分析の臨床において「父の名」や象徴的なものを頭に置いておくことの大切さをあらためて考えた。しかし、その際に連想された英語が帰って調べてみると、いくつかの記憶や事柄がごっちゃになっているような気がしないでもない。ある外国人の神父の話していた英語での話の中で、突如私の耳に入ってきた言葉について話したのだが、それが単独での正確な事実かとなると我ながら疑問が生じてきた。しかし、正確かどうかは別にして、その連想自体は、ラカンの述べている文脈には則したもので、けっこう私の分析的思考には役に立つ連想なのである。

いずれにしても、エクリは知識を提示しているのではなく、読むひとに連想をさせながら、しかも本質的なものを掴ませるように書かれている、と考えることが重要であろう。そして、この連想を働かせるためには、ひとりだけで読むより何人も集まって、いろいろな専門あるいは立場のひとが集まって話をするのがよい。

夕食会での歓談も楽しみつつ、いろいろと示唆されるところがある。今の高校の先生は大変だ、平日は授業だ準備だ会議だと忙しい上に、週末は部活の顧問で出かけて休みがない、などという話も聞いた。しかし、考えてみれば、研究会に参加している私たちも日曜日を潰しているわけである。ただ、強制とか義務というわけではなく、自分が好きで参加しているというところが、大いに違う。自らが学びたいという欲望に沿って活動している、ここが重要なところである。ところが、学会の専門医や何かの資格認定の更新などは、学会や研究会に参加して更新期日までに規定のポイントを貯めなければならない。ほっておけば、ひとは勉強しないとでも思っているのか?あるいは、目に見える規約を作っておかないと安心できないのか?

いろいろなものがマニュアル化され条項によって規定される傾向の強い社会が鬱陶しくなることがある。昨日の研究会に出たからといって、見える形でのポイントがもらえるわけではない。ポイントはもらえなくても、目に見えないものを私は多いに得るのである。
nice!(9) 
共通テーマ:健康

よい人

おじいちゃんお元気ですか。ぼくも元気です。
もうすぐぼくの誕生日なので、ぼくはとってもうれしいです。

小学生の頃、こんな文面の手紙を母方の祖父に送った記憶がある。しばらくして祖父から現金書留が届いた。そのお金は誕生日のプレゼントで、好きなものを買えということだったのだと思う。小学生ながら、ストレートにプレゼントちょうだいと言うのは気兼ねして、そういう文になったのだろう。

祖父は私が高校生のときに亡くなった。1000キロ以上遠くに住んでいたので、死に目にあうことはなかった。亡くなる前には病院に入院していたが、病床で私宛てに書いた最後の手紙はちり紙に数行。そのちり紙で1万円が包まれていた。手紙の文は数行ではあるが、あまりに遠い昔のことで正確には思い出すことができない。ただ、「よい人になりなさい」と書いてあったことに言葉の重みを感じたことは覚えている。よい人とは、難しい。祖父は浄土真宗のお坊さんだったので、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」がこの言葉の背景にはあるのかもしれない。あるいは、高校生向きの言葉と取れば、ふつうに、よい人、という意味に解してもよいのかもしれない。

祖父の正確な意図はわからないが、立派な人、とか偉い人、とか、勉強しなさい、とかではなく、シンプルに「よい人」という表現にたじたじとなった。それは今でも変わらない。よい人になりたいと思ったし、今でもそう思ってはいる。だが、よい、とはどういうことなのか?それ自体、難しい問いである。

ひとのために何かよいことをしたい。目に見える形で、あるいは目立たない形で、多少のことはしている。だが、自分の能力はあまりにも些少である。昨日も、横浜の街を通るときに、ふと道の傍らにはストリートピープルのおじさんが横になっていた。腹がへっているだろう。寒いだろう。一人や二人ではないから、私が手をさしのべ始めたところで、私はすぐに破産し、今度は私が仲間になってしまう。自分の身を守るために何もせず、ほんの少しの心苦しい気持ちを一瞬感じながら通り過ぎて行くのみである。また、悪意はなくても、結果的にひとに対して悪い影響を及ぼしてしまったり迷惑をかけたりしていることもあるだろう。

私がものごころついた頃、祖父は仕事はせず、畑で野菜を作ったりで悠々自適の生活をしていた。金持ちでもなく有名でもない、ただの老人だった。子どもの私には、ほかのひとと違う独特の崇高な雰囲気を感じていた。たまに夏休みなどに一緒に生活すると、起きても食べても、「南無阿弥陀仏」を唱え合掌しているのを見た。家族の誰にもそのことを強要せず、たんたんと当たり前のようにやっている。何かを指示的に教わった記憶はない。こうしろああしろ、あれはダメだ、これはダメだ、と言われた記憶もない。なんでも、よいよい、と言っている人だった。でも、従弟を叱る場面に出くわして、厳しいところもあるのだなとビックリした記憶もある。

最初で最後の指示が「よい人になりなさい」だった。
nice!(13) 
共通テーマ:日記・雑感

映画「杉原千畝」

今日は実在の外交官を題材にした映画「杉原千畝」を見てきた。杉原千畝(すぎはらちうね)氏は、第二次世界大戦中、リトアニアの日本領事館領事代理として赴任していた時に、ナチスの迫害を逃れて逃げてきたユダヤ人に独断で日本通過ビザを発給し、多くのひとの命を救うことになった。

発見されたビザのリストによると、その数は2139枚。1枚のビザに子どもなど家族が含まれるケースもあり、杉原氏のビザにより救われた命は6000人以上だと言われている。後に杉原氏は退職勧告を受け、外交官を辞したという。

映画はナチスの蛮行に憤りを感じる熱血外交官といったような単純化した美談としてではなく、杉原氏が満州国で外交官として質の高い情報を収集していたこと、ドイツのソ連侵攻の計画を嗅ぎつけるなど、優秀なインテリジェンスオフィサーであったことも合わせて多面的に描いている。

若干上映時間が長そうで途中で間延びするかもしれないと思ったが、それは杞憂で、厭きさせないテンポの良いストーリーとなっている。人が死んだり戦闘の場面もあるが、現代に生きる我々にも多くのことを考えさせられる映画である。

こう書けば、ラカン理論を知るひとなら、セミネール7巻のアンティゴネの話や、大文字の他者の概念はすぐ連想されるだろう。ここでさらにラカン理論を使っての説明と文章の才に長けれていれば、精神分析的見地からの映画評論の論文いっちょ上がりー、となるのだろうが、アイディアだけで、はいそれまでよ、という私の文章はここで終わるのである。
nice!(10) 
共通テーマ:日記・雑感

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

このブログは思いついたことを書いている程度で、きれいな写真を載せているわけでもなく、高尚なことを論じているわけでもありませんが、訪問してくださって、ありがとうございます。

今年は2016年、平成28年。振り返ると、平成元年と言えば、私が医者になってまだ駆け出しの頃ですし、2000年と言えば、ラカン派精神分析の勉強をしようと豪州に渡った年です。1年経つのは早いですが、10年、20年の単位ですらあっという間のように思えます。新年になったばかりですが、今年1年もあれよあれよという間に過ぎ去ってしまうのでしょう。それだけに、1日1日を大切に過ごしたいと思っています。

今年のテーマとしては、程よく欲を持とうと思っています。

にんげんあまり欲張りになりすぎてもいろいろと支障が出てきますが、あまりにあっさりしすぎているのも、いまひとつ充実感が得られにくいような気がします。程よくとは、言うは易く行うは難しなのでしょう。なかなか実際には掴みにくいかもしれませんが、程よくの具合をこれからよーく探っていきたいと思います。もっとも、あまりにそのことにこだわると、程よくを通り越してしまうので、程よくを程よくすることにしたいと思います。

nice!(6) 
共通テーマ:日記・雑感