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おしまい

今日は大晦日。あと半日で今年もおしまいである。この1年何があったかと思い出そうとすると、断片的には甦るが、どうもそんなことをしてもいまひとつ意味はなく面倒な気になってきて思考が止まりがちになる。

ということで、何があった、よかった、悪かった、そういう類のことは書くのをやめて、とにもかくにも、いまこうやって生きながらえて、着るものがあり、住むところがあり、食べることができて、爆弾が空から降ってくるような環境ではなく、落ち着いて生活できていることに感謝して、今年の最後の記事を終えることにしたい。

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「思想12月号」を読むと

岩波書店の「思想」という雑誌はたまに購入する。このたび、2015年12月号を購入した。

私にとっての一番の目玉は、鈴木國文、河野一紀両氏による対談「いま、ラカンのセミネールを読む」である。しばらく前に、ラカンのセミネール8巻「転移」の邦訳上巻が岩波書店より刊行されたことを、このブログで書いた。その後、下巻も刊行され買ったのだが、上巻の途中で止まったまま下巻は積読状態である。私の停滞している読書がなんとか促進されるかもしれない、という淡い期待もあったのだが、丁度それに相当する部分が対談にあった。「完成された知を得ようとして読むと、結構しんどいかなと思います」と言う鈴木氏に呼応して、河野氏は「わからないなりにある程度のスピードに身を任せて進んでいくような読み方があるのではないでしょうか」と言う。

この年末年始には、「転移」のセミネール上下巻をざっと読んでみようか。結果は年始に書くことにしよう。

なお、他にも、たとえば冒頭「思想の言葉」の柄谷行人氏の文章もいろいろと考えさせられる。平和をカントやフロイトから考えてみるというのも確かに一考である。




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ものごとを考える

精神分析を受けていると両親や兄弟(同胞)のことが話題となることはよくあることだろう。理論から言ってもエディプス複合や同胞葛藤ということから考えれば、そういった話題はもちろん大事であることは間違いない。

しかし、自由連想というのは思いついたことをそのまま話すという作業なのだから、本来的にはいろいろなことが話されるのが自然だろう。たとえば、どこそこのカフェのコーヒーがおいしいとか、最近読んだ本や見た映画の感想といった話が出てくるということはある。一見すると、こういう話題は雑談であって、無駄な話であるとか、本来真剣に考えるべきことから逃げているとかいう見方がされることもあるだろう。果たしてそうなのか?

もちろん、こんなことをしました、で終わってしまえば、単なる日常生活の報告にすぎなくなる。ある出来事から、さらにどういう連想が生まれるのか、というところが分析的になるかどうかの境目になる。それがうまくいけば、単に親は自分より兄弟の方をかわいがっていたというような話を繰り返すより、はるかに得るものが大きくなるだろう。

ものごと一般に目を向けてみよう。何か問題がある。なんでもよい。そのこと自体をなんとかしようとして、いわば直接的に変ようとする。もちろんその方法はわかりやすい。ものごとを広く深く考えるわけではないから、すぐに安直に思い浮かぶ。たとえば、女性の活躍を増やすにはどうしたらいいのか?そうだ、数値目標を設定していわば半強制的に女性の管理職を増やせばいいではないか。確かにそのことを単純にやみくもにやれば、外見上、女性の管理職は増えるだろう。だが、それは問題となるものごとの根本的な解決になっているだろうか?

こんなことを書くと、あなたはそうやってなんだかんだうまいこと言って、女性の地位を上げないように画策しているのですね、などと思うひともいないとは限らない。ふっとそんなことを連想しながら、敢えてこの例を出してみた。

枯葉はたくさんの枯葉が舞って、枯葉と見える。だが、そのたくさんも一つ一つの枯葉があっての秋の風景なのである。
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